大教大付属池田小の連続殺傷事件に判決が下った。死刑。
最後まで悔いることも無かった被告を見ていた被害者の両親たちの気持ちを想像するだけで、表現だけではなく物理的に心臓を掴まれたような息苦しさを感じる。
某新聞で、不条理を公言してはばからない被告の精神状態を考察する上で、自分の生を根本のところで肯定できなかった被告には倫理は全く無力だという、哲学者永井均氏の著作を引用していた。だから子どもには道徳を教えるより先に人生が楽しいこと、自分の生が肯定されるべきものであることを体に覚えこませることが一番だとも。
最近よく考えるのは小さい私と妹を育てていた頃の母の心情である。かなり厳しい母で今考えれば育児ストレスからだろうささいな事でよく感情的に叱られたものだったけど、それでも自分の存在が否定されてる、愛されてないなんてすこしも考えたことがなかった。それが体で覚えるということなんだろう。
母に感謝すると共に母としての自分の心を覗いてみる。何も神経質にならなくても子ども達を愛している事実さえあれば、イライラから叱ることがあっても、私が小さかったときと同じく子ども達はきちんと自分の存在自体を望まれていることを感じてくれるだろう。それは楽観的すぎる?次に私自身、人生を楽しいと感じているか。基本的にはそうなんだけど案外日常のささいなことにとらわれてその事実を忘れそうになるときもあるな。もっと大局的にみなくちゃね。
と最初の導入からかなり脱線した展開になってしまったなあ。
こんにちは。
無条件に愛してくれる親の存在は大きいと思いますよ。
人生を楽しく思うには楽しいこと、苦しいことなどを
ネタにしてしまえばいいのかもしれません。
なんかあってもネタができてよかったと思えば
楽しくなってきます。
こんばんは、kengoさん。
確かに子どもにかける愛情ってのは見返りを求めない、何かしてもらうことを期待しない、ただそこに居るだけでいいというものだと実感してます。
ネタ、そうですね〜。そういえば育児に関してはけっこうここでネタ化して昇華してるかも(笑)といってもささいなことなんですけどね。
やっぱり苦しいことも楽しいこともひっくるめて「人生は楽しいものだ」という域に達したいものです。