つくづく思うのだけど仕事もせっぱつまってくると味気ない日記になるよなあ。そもそもゆっくり考えるって暇がなくなると文章もただの記録になってしまうし。それならば書かなきゃいいんだけど味気ない記録も後になればいい思い出ということで。きれぎれの断片的な思考。
私このまま仕事続けて行ったら、それこそ定年後に何やっていいか分からない逆パターンサラリーマンオヤジになるんではないだろうか・・・なんて思うぐらい仕事が一日に占める比重が増えている。時間的にも精神的にも。復帰したばかりの暇な時はそれがそれでストレスだったくせに。元のペースにもどってくるとそれはそれでストレスってことは、この仕事が「天職」ではないのかもしれないな。というより「サラリーマン」という状態に昔ほど執着がなくなってきたのかもしれない。
てことはこのあたりが転機か?なんて考えも頭をよぎる。例えば今会社を辞めるなりなんなりして、大きく舵をきって方向転換して5年間を準備期間に充てるなら、その期間にちょうど子どもたちが小学生の大切な時期一緒にゆったりいられる。人生長いんだし、定年後だって長い時間があるわけだから今の時期からでは遅い、ってことはきっとないんだろう。きっと行動を起こさなければ5年間なんてあっという間に過ぎ去ってしまうんだろう。
会社の同期が急にインフルエンザウイルスの血液感染で亡くなった。その訃報を見ながら来し方行く末をいろいろと考えてしまう深夜12時半。
「舵を切る」・・・という言い方は、自分も転職や独立を考えた時、とてもしっくり来る表現なので好んで良く使います。
「サラリーマン」・・・って読んで字のごとく安定した給料を得ることができる人種なんですが、「会社の下にいなくてもそれなりにやっていけそうな自信(予感)」や「安定よりも大事なものを実感(家族との時間とか)」が自分の中に膨らんできて、丁度いいタイミングで自分の環境に変化が来るといろいろと考えちゃいますね。
私には「こうなりたい」・・・という強い夢みたいなものはないんですが、「こうあってもいいんじゃないか?」・・・のように思うことは多々あります。
守るものさえしっかり守れれば、自分を必要以上に閉じ込めたりすることもないと思うので、ボチボチ準備をしたり急に思い立ったりしながら、何がしか味わいを実感できる生活が送れるようになるといいですね。
「舵を切る」は確かに現状が低い位置にあるから、より高みへ、だとかそういう意味ではなくて「方向を転換する」という意味合いで使ってます。ただ、私ははっきり言って「舵を切る」場面というのがなかなか今までの人生ではなかったりして、環境が変化する事自体にけっこう恐れに近い感情を持っているというのは否定できないんです。
でも、説教臭いようですが人生一回きりですもんね。そういう意味では程よく「舵を切る」場面があったほうが楽しいはず。子どもを生んだその時ではなくて、今ぐらいにそういう気持ちになるのも、考える余裕が出てきたってことなんでしょうか。
「会社の中で自分の能力で泳いでいる」という感覚が今になって「会社の制度に頼っている」というネガティブな感覚になっているのも事実なんです。子どもを生んでも仕事をペースダウンせず邁進していればそういう気持ちにはならなかったはずだけど、でも今度はプライベートで後悔することもきっと多かっただろうし。やはりすべて一挙には手には入れられないものなんでしょうね・・・。そういう心の澱も後から考えれば「味わい」になるのだろうけど。
こういう心の移ろいの日記に反応していただいて嬉しいです。どうもありがとう。