さて、私の父は今定年を迎えているけどウイークデーは働いている。その合間にいわゆる「家庭菜園」を作っているのだけど野菜を育てるのが本当に上手。技術者なのにけっこうおおざっぱ、おおらかな性格なので「育てる」ということには不向きに見えるんだけどな〜。今日も「もうキュウリが毎日どんどん大きくなるから毎日収穫しないとダメになるし〜」と言いながら雨の中取ってきてくれたまったく無農薬の夏野菜、もうなすやきゅうりは見るからにツヤツヤしてるし、紫蘇なんか香りの立ち方が違うし、葉の生命力というか、力強さが売っているものとは全く別物。ありがたくもらってきた。美味しそう〜。さあどう料理しましょうか。
閑話休題、「ミーム」とは昔読んだリチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」に初出のワードで定義は難しいのだけど「文化も遺伝子のシステムのように、伝達され広がるものであると想定した場合のその基本単位」という意味。遺伝子の競合、淘汰と同じようなシステムで、文化や情報も競合し人の間で広がり淘汰される。今ではその遺伝子的な思考から拡散して心理学的な用語としても使われている。
父方の家系は農業を生業としている家系なのだけど、若い頃技術者として早々に家を離れていたから、経験的に農業の知識を持っていた訳ではない。でも今の家庭菜園の野菜の出来を見ていると(父曰く、周りで家庭菜園をやっているどの畑よりも収穫が見事らしい、です)、代々農業をやってきた家系の中の「野菜を育てる情報ミーム」がありえないのだけど遺伝子として伝わっているのでは?なんて思ってしまう。ああでも「利己的遺伝子」の中でもそういう種としての「経験」が遺伝子に組み込まれ伝わるという可能性を示唆していたような・・・あとで読み返してみよう。
そして、その日とりたてのきゅうりを切ってもらって金山寺味噌をつけて食べさせてもらい、美味しさを舌で感じて、雨の中野菜を取ってきて雨に濡れてツヤツヤした野菜をみせてもらってそれを持って帰る。この一連の流れでやっと私の脳内は「ああこういう無農薬の野菜って欲しいかも」という概念が生まれる訳です。「無農薬野菜は体にいい」という概念はミームとして伝わっているのだけど、それを入手や購買というアクションに結びつけるには私のようなタイプの場合、自分の五感で体感しなければ納得しないんだなあ〜。とすれば私のような媒介は情報ミームが伝達しにくい媒介となるわけですね・・・。となんとなく頭の体操的な今日の日記なのだけど、けっこうこの思考システムを深堀りしていけば、自分の今の仕事の核になる「コミュニケーション」について発見することがあるかもしれないなあ。ちょっとしたきっかけで知的好奇心が動いた日でした。